ラダ・ビノード・パールは、1886年、インド・ベンガル州の小村に生まれた。
三歳にして父を失ったため、家は非常に貧しく、大学を終えるまで経済的な苦難の途を歩んだ。

パールは苦学を重ね、カルカッタ大学に入り、奨学金を得て、卒業まで主席を通し、さらに州政府の大学に入った。
1907年に彼は理学士の試験に合格し、数学賞を受け、その翌年、数学の理学修士の学位を受けた。彼の専門は数学だったのだ。彼はさらに法科に進み、1909年、リスボン大学で法科の課程を終え、翌1910年にはインド連合州会計院に就職した。
会計院に務めるかたわら法律を勉強したが、アンナダモハン大学から数学教授として招聘され、そこで教鞭をとった。
しかし、彼の母は彼を法律家にすることが終生の念願だった。
彼女は、インド民衆の不幸を救うためには、インドをイギリス帝国の手から奪い返すためには、息子を立派な法律家にすることだという強い信念を持っていた。
この点、ネール首相やガンジー翁の母の願いも同じであった。
インドにおいて、白人と平等の立場においてものが言えるのは法律家のみである。パールの母は、常に虐げられたる者の見方、インド民族の救世主たれと、パール青年を鼓舞した。

彼女の念願がかなって、パール青年は法学士の試験にパスした。そこで彼女は彼を高等法院に入れようとした。しかし、そうするためには経済的な問題を解決しなければならなかった。彼女は田舎に家族を連れて戻り、パールは収入のほとんどを勉学に費やすことができ、教鞭をとるかたわら、法学修士の学位を得るために勉強し始めた。不幸にして彼の母は1917年12月この世を去った。
パールの妻は姑がやったのと同じように、家事万端を引き受け、多くの家族の面倒を見ながら経費を切り詰めて夫の研究を助けた。パールは1920年に法学修士の試験を一番でパスし、4年後には法学博士の学位を得た。同じ年に、彼は母校カルカッタ大学タゴール教授職という名誉ある地位に任命された。

1923年9月、彼はカルカッタ大学の法学部教授に任命され、1936年までこの職にあった。その間、1927年には所得税庁の法律顧問となり、1936年にはイギリス枢密院の有名なユール事件の弁護士としてインド政府から派遣された。
さらに1937年にはハーグで開かれた国際法学会の総会に招聘され、その会議の議長団の一人に選ばれた。インド人としては最初の議長であり、彼の国際法学会における名声は高まった。
1941年1月、カルカッタ高等法院の判事に就任した。ここに初めて彼の亡き母の修正の念願が叶えられたのである。
1944年には選ばれてカルカッタ大学総長に就任。早々から名総長の名をうたわれたが、1946年3月には総長を辞任した。なぜなら、ネール首相が彼を、日本の「A級戦犯」を裁くための極東国際軍事裁判(東京裁判)のインド代表判事に任命したからである。

パール博士 Wikipedia


0807
曇り空
ぽっかり開いた
月輝く
【まどか】








花珠パールネックレスー岩城真珠
花珠真珠;本日の逸品公開中


真珠のご用命はお気軽に 0120−760−100 フリーダイヤル
お問い合わせフォーム