2010年04月
世界の平和なくして日本の平和なんてありえない。
世界あっての日本です。
人間だってそうでしょ。
自分独りで生きることなんてできやしないんだから。
助けたり、助けられたり。
自分だけが、自国だけがって、言ってたら、どんどん独りぽっちになっちゃいますよ。
咢堂塾
相馬雪香さんの50の言葉
本当に偉いのは、同じ志を持って集まってくれて、活動の輪を広げていってくれている人たちです。
私はただ言い出すだけなんだから。
周りが偉いんです。
咢堂塾
相馬雪香さんの50の言葉
「桐野夏生は、凄い!」そんな言葉を桐野さんに近い人から会う度に聞く。
その彼女と桐野さんとは学生時代からの親友だが、色んな偶然が重なって岩城も十数年前から交誼いただいている。
その彼女が珍しくブログで絶賛していたのが、新刊「ナニカアル」だ。
面白い題名とは裏腹「ナニカアル」は昭和初期に活躍した作家、林芙美子を題材にして、彼女の激しくとも儚い一生を書き上げている。
1903年に生まれた芙美子は実母の駆け落ちに手を引かれるように各地を転々とするが、13歳の頃、尾道に安住の地を得、多感な少女時代を過ごす。
19歳の時に遊学中の恋人の後を追い上京。下足番、女工、事務員・女給などで自活するが恋人と婚約解消し、また関東大震災に遭遇したことを契機に、尾道に帰省する。
この頃からつけ始めた日記が、昭和5年に刊行された「放浪記」の原型となる。
1924年、21歳の時に親を残して単身上京をし、その頃から同棲を繰り返しては別れるという恋多き女のレッテルを貼られるが、作家としての下地はこのときに作られたのではないだろうか?
1926年、23歳の時に画学生の手塚緑敏と内縁の結婚をし生活が落ち着き、1930年(昭和5年)に刊行した「放浪記」と「続放浪記」は、昭和恐慌の世相の中で売れに売れ、芙美子は一躍流行作家になった。
然しながら、そんな芙美子の幸せも、刻々と近づく戦争の影が飲み込もうとしていた。
1942年(昭和17年)、陸軍報道部より南方への渡航を言い渡された芙美子は朝日新聞社所属としてジャワ・南ボルネオに赴く。
当時は作家は勿論、映画監督も画家も徴用という名目で南方や満州に派遣されていた時代だ。女流作家といえど例外ではなかった。
ジャワ島はインドネシア共和国の最大の都市、首都ジャカルタを要する当時からインドネシアの重要な島である。インドネシアの国土は1万8,110もの大小の島により構成されるがその本当の数は誰にも分からないといわれている。
灼熱の太陽と熱帯の湿った空気は芙美子の気分を塞ぐには十分だったが、当時の恋人、斎藤謙太郎とひょっとしたらめぐり会えるのではとの微かな望みが生き甲斐だった。
斎藤謙太郎は毎日新聞記者として芙美子と出会い恋に落ちた。エリートの斎藤はそのキャリアからイギリス特派員、アメリカ特派員の要職を得たが、太平洋戦争勃発と共にスパイ容疑の嫌疑が付き纏うようになってしまった。
7歳年下の男との赦されない恋なのに、さらに憲兵から監視される状態でも燃え上がる恋。その情感を桐野夏生は粛々としかし命を削るような文面で書き連ねていく。
激しい時代に激しく恋に生きた女、林芙美子。
刹那的に異国で出会い、恋の証としてインドネシア・アルタプラで買い求めたダイヤの原石。
現地で採れたこの黄色味を帯びた小豆大の石ころが二人の子供だと・・
南方激戦地の代名詞のように言われるインドネシア半島ですが、南洋真珠の養殖場開拓の歴史は古く1921年(大正10年)藤田輔世氏がインドネシア・セレベス島ブートンで養殖を始めています。
藤田輔世は東京大学臨海実験所の助手を努め理学士の資格を持っています。
元々真珠養殖は東京大学臨海実験所の縁が深く、真円真珠の特許を申請した西川藤吉も東京大学動物学教室出身です。然しながら出願の2年後に急逝し、その後の研究を引き継いだのが藤田輔世です。
東京大学は、20年間にわたり真珠養殖の実験を三崎の油壷湾で行っていましたが、真円真珠が完成したということをもって、目的は達したとして研究をやめています。
然しながらその志は現在のインドネシアの海にも引き継がれ、インドネシア水産総局に登録されている養殖会社の数だけでも約80社にもなります。
真珠は研磨しなくてもそのままで美しい宝石です。
激動の時代に自分の心の趣くままに激しく生きた女流作家、林芙美子。
林芙美子がインドネシアに訪れた時が戦時中でなかったならば、きっと真珠を買い求めたと私は信じたいと思います。
━……‥‥・‥‥……━━……‥‥・‥‥……━━……‥‥・‥‥
今回の20周年記念商品は、南洋真珠専門のバイヤーさんから
特別に提供していただいた真珠ネックレスを2点のみの限定紹介。
┏┏┏┏──────────────────────────
┏┏┏ 20年分の感謝をネックレス込めて
┏┏ 白蝶南洋真珠ロングネックレス
┏ スペシャルコレクション 厳選2点
http://www.pearl.ne.jp/necklace/NW148DL0TI040601SV.html
http://www.pearl.ne.jp/necklace/NW148DL0TI040602SV.html
インドネシアに養殖場を持つ大手真珠にて長年に渡りバイヤーとして活躍した知人が一番最初に差し出したネックレスがこの2本のネックレス。
「選別する前に特に輝きの良いものだけを選んで連組をしてみたよ」との事。
確かにバロックの南洋真珠は沢山見てきましたが、ここまでテリの良い商品は珍しい。
「売りたくないんだが・・・・・」の言葉は彼の正直な言葉だろう。
「二本だけしか出来なかったから20周年記念として使って下さい」と。
1番目のネックレスが79個の真珠を使って約83センチの長さに仕上がっている。
2番目のネックレスは85個で約83センチだ。
通常のネックレスサイズの倍の真珠を使っての豪華な作品が出来上がった。
正直に言おう。
この品質で真珠一個あたりの単価が約2,000円とは、私には考えられません。品質と価格を考えると、最初で最後のご提供だと思います。
今回は業界でも考えられない価格でのご提供です。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
今回で4回目のメールマガジンの発行です。
まだまだ未熟で読者数も100名ほどです。
宜しければ購読をしていただけたら幸いです。
読者が多ければ多いほど燃えるタイプです・・・・たぶん(笑)
メールマガジンのお申し込みは
http://www.pearl.ne.jp/magazine.html
その彼女と桐野さんとは学生時代からの親友だが、色んな偶然が重なって岩城も十数年前から交誼いただいている。
その彼女が珍しくブログで絶賛していたのが、新刊「ナニカアル」だ。
面白い題名とは裏腹「ナニカアル」は昭和初期に活躍した作家、林芙美子を題材にして、彼女の激しくとも儚い一生を書き上げている。
1903年に生まれた芙美子は実母の駆け落ちに手を引かれるように各地を転々とするが、13歳の頃、尾道に安住の地を得、多感な少女時代を過ごす。
19歳の時に遊学中の恋人の後を追い上京。下足番、女工、事務員・女給などで自活するが恋人と婚約解消し、また関東大震災に遭遇したことを契機に、尾道に帰省する。
この頃からつけ始めた日記が、昭和5年に刊行された「放浪記」の原型となる。
1924年、21歳の時に親を残して単身上京をし、その頃から同棲を繰り返しては別れるという恋多き女のレッテルを貼られるが、作家としての下地はこのときに作られたのではないだろうか?
1926年、23歳の時に画学生の手塚緑敏と内縁の結婚をし生活が落ち着き、1930年(昭和5年)に刊行した「放浪記」と「続放浪記」は、昭和恐慌の世相の中で売れに売れ、芙美子は一躍流行作家になった。
然しながら、そんな芙美子の幸せも、刻々と近づく戦争の影が飲み込もうとしていた。
1942年(昭和17年)、陸軍報道部より南方への渡航を言い渡された芙美子は朝日新聞社所属としてジャワ・南ボルネオに赴く。
当時は作家は勿論、映画監督も画家も徴用という名目で南方や満州に派遣されていた時代だ。女流作家といえど例外ではなかった。
ジャワ島はインドネシア共和国の最大の都市、首都ジャカルタを要する当時からインドネシアの重要な島である。インドネシアの国土は1万8,110もの大小の島により構成されるがその本当の数は誰にも分からないといわれている。
灼熱の太陽と熱帯の湿った空気は芙美子の気分を塞ぐには十分だったが、当時の恋人、斎藤謙太郎とひょっとしたらめぐり会えるのではとの微かな望みが生き甲斐だった。
斎藤謙太郎は毎日新聞記者として芙美子と出会い恋に落ちた。エリートの斎藤はそのキャリアからイギリス特派員、アメリカ特派員の要職を得たが、太平洋戦争勃発と共にスパイ容疑の嫌疑が付き纏うようになってしまった。
7歳年下の男との赦されない恋なのに、さらに憲兵から監視される状態でも燃え上がる恋。その情感を桐野夏生は粛々としかし命を削るような文面で書き連ねていく。
激しい時代に激しく恋に生きた女、林芙美子。
刹那的に異国で出会い、恋の証としてインドネシア・アルタプラで買い求めたダイヤの原石。
現地で採れたこの黄色味を帯びた小豆大の石ころが二人の子供だと・・
南方激戦地の代名詞のように言われるインドネシア半島ですが、南洋真珠の養殖場開拓の歴史は古く1921年(大正10年)藤田輔世氏がインドネシア・セレベス島ブートンで養殖を始めています。
藤田輔世は東京大学臨海実験所の助手を努め理学士の資格を持っています。
元々真珠養殖は東京大学臨海実験所の縁が深く、真円真珠の特許を申請した西川藤吉も東京大学動物学教室出身です。然しながら出願の2年後に急逝し、その後の研究を引き継いだのが藤田輔世です。
東京大学は、20年間にわたり真珠養殖の実験を三崎の油壷湾で行っていましたが、真円真珠が完成したということをもって、目的は達したとして研究をやめています。
然しながらその志は現在のインドネシアの海にも引き継がれ、インドネシア水産総局に登録されている養殖会社の数だけでも約80社にもなります。
真珠は研磨しなくてもそのままで美しい宝石です。
激動の時代に自分の心の趣くままに激しく生きた女流作家、林芙美子。
林芙美子がインドネシアに訪れた時が戦時中でなかったならば、きっと真珠を買い求めたと私は信じたいと思います。
━……‥‥・‥‥……━━……‥‥・‥‥……━━……‥‥・‥‥
今回の20周年記念商品は、南洋真珠専門のバイヤーさんから
特別に提供していただいた真珠ネックレスを2点のみの限定紹介。
┏┏┏┏──────────────────────────
┏┏┏ 20年分の感謝をネックレス込めて
┏┏ 白蝶南洋真珠ロングネックレス
┏ スペシャルコレクション 厳選2点
http://www.pearl.ne.jp/necklace/NW148DL0TI040601SV.html
http://www.pearl.ne.jp/necklace/NW148DL0TI040602SV.html
インドネシアに養殖場を持つ大手真珠にて長年に渡りバイヤーとして活躍した知人が一番最初に差し出したネックレスがこの2本のネックレス。
「選別する前に特に輝きの良いものだけを選んで連組をしてみたよ」との事。
確かにバロックの南洋真珠は沢山見てきましたが、ここまでテリの良い商品は珍しい。
「売りたくないんだが・・・・・」の言葉は彼の正直な言葉だろう。
「二本だけしか出来なかったから20周年記念として使って下さい」と。
1番目のネックレスが79個の真珠を使って約83センチの長さに仕上がっている。
2番目のネックレスは85個で約83センチだ。
通常のネックレスサイズの倍の真珠を使っての豪華な作品が出来上がった。
正直に言おう。
この品質で真珠一個あたりの単価が約2,000円とは、私には考えられません。品質と価格を考えると、最初で最後のご提供だと思います。
今回は業界でも考えられない価格でのご提供です。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
今回で4回目のメールマガジンの発行です。
まだまだ未熟で読者数も100名ほどです。
宜しければ購読をしていただけたら幸いです。
読者が多ければ多いほど燃えるタイプです・・・・たぶん(笑)
メールマガジンのお申し込みは
http://www.pearl.ne.jp/magazine.html
I will go forward, to where everyone is waiting for me.
よき仲間や目標にする人、みんなが前進しています。自分が少し遅れるときもあります。
みんなより、先に行くときもあります。もし、遅れたら、少しだけスピードをあげればいいんです。すぐ追いつきますよ。だってみんなは、貴方の来るのを待っているんだもん!!
Your close friends and the person you idolize go on forward. Sometimes you get behind. And sometimes you go out in front. If you get behind, you should just speed up the pace. You will catch up quickly, for they are waiting for you.
斎藤一人
たくさんの情報にも触れるし、海外にだって行けちゃう。
その海外も、観光旅行とかじゃなくて、ボランティアとか、NGOとかで行っちゃう。
問題は、そんな若者の才能や生き方を、われわれ大人がどうやってエンカレッジしていくかですよ。
相馬雪香さんの50の言葉
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